新陰流兵法とは何か (24) 「型稽古の本質とは」

いま古流剣術が面白いーー新陰流兵法とは何か (24)

「型稽古の本質とは」

 ところで本項は蛇行、寄り道を繰り返し漂流状態になっている。どうにも収拾が付かない。本題の「新陰流とは何か」を究明するどころか、その周辺をいつまでもうろうろ回っているばかりだ。甚だ遺憾としか言いようがない。そこで、遅きに失した感はあるが、漂流状態の話を出発点--新陰流の型稽古に戻すことにしたい。

 以前少し触れたと思うが、新陰流には「取上げ使い」「下から使い」「試合勢法」「本伝」と四種類の型群があり、これを入門から上級へ向かって教習して行く。まずは導入部の三学(取上げ使い)に始まり、次いでレベルを上げた「下から使い」「試合勢法」を四、五年間稽古して、ようやく目録という上級レベルの伝位に到達する。目録になると、いよいよ「本伝」という実戦型の型稽古が始まる。ここからが型稽古の醍醐味である。

 確かに型というのは、決められた手順に従って、使打が手順を尽くすと、最終的には打太刀が負け使太刀が勝ちを納めるように出来てはいる。古流剣術にはルールというものが決められないから、他のスポーツ武道の様に試合ができない。従って自然な、真剣な動きが取れないように思われがちである。打太刀はいかにうまく使太刀に負けてやるかを演技する役割であると錯覚することが起きやすい。しかしこれはとんでもない勘違いである。全くの逆の理解といっても良い。

 本伝の型とは--、結論をいえば、新陰流流祖上泉伊勢守が、戦場において敵と戦い、互いに術を尽くした末、首尾よく敵を討ち取った闘争の記録に他ならない。従って、型稽古を行うとは、敵との生死を掛けた伊勢守の闘争を再現するという心構えでなければならない。戦国時代から江戸初期にかけて何百という武術流派が出現した。これらの流派の流儀はそれぞれの流祖が生き残った「わが闘争」の経緯の記録であり、それを弟子に教え伝えることを目指している。これこそが流儀、流派の起こりであると考えられる。

 従って、型稽古は、常に互いに何としても相手を倒そうという厳しい気迫と動作をもって立ち向かわねばならない。結果として過去の事実の通り、使太刀の技が一枚上手で打太刀は使太刀に敗北する。使打共にこの流祖の闘争の過程を真剣に再現するという実感をもって型を使わねば、三文芝居の筋書をなぞると同じことになってしまうのである。

(続く、睡猫児)

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