新陰流兵法とは何か (19) 続々・「心法の江戸柳生」「刀法の尾張柳生」

いま古流剣術が面白いーー新陰流兵法とは何か (19)

続々・「心法の江戸柳生」「刀法の尾張柳生」

 『活人剣』という言葉を、聞いたことがあるかと思う。広辞苑を引くと、『人を活かす剣。人を殺傷するための刀剣も用法がよければ、かえって人を活かすものとなる。対照語は殺人剣』と書かれている。活人剣は一般的には、かつじんけんと言われているが、新陰流ではかつにんけんと呼ぶ。ちなみに殺人剣はせつにんけんである。

 さて活人剣だが、関ヶ原の大戦が終わって世が落ち着いたころ、徳川二代将軍秀忠の剣術師範となった柳生但馬守宗矩がこんなことを言い出した。「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い、活かすための手段となる」

 太平の世における剣術の存在意義を主張したわけである。宗矩は禅における自分の師匠である沢庵禅師が宗矩に書いて与えた書「不動智神妙録」に決定的な影響を受けた。その影響下に著した剣術書『兵法家伝書』において、「剣術は単なる闘争のためだけの術に非ず、そのようなものは小さき兵法であり、大将たるものが修めるものではない。大将たるものは大なる兵法こそ修めるべきである。兵法は人を斬るにはあらず悪を殺すなり」と剣の操法より、まずは「心ありき」つまり心法を重視し、術から道への先駆けとなった。こうした考えを重視するところから宗矩が興した江戸柳生を「心法の江戸柳生」と呼ぶのである。

 元和九年家光が三代将軍となると宗矩は家光の兵法師範となった。家光と宗矩とは大変馬が合ったらしく家光の宗矩に対する信頼は厚かった。家光は宗矩の称える活人剣の教えに素直に従った。だが、家光に不満がないわけではなかった。宗矩の剣術に対する形而上の考えには賛同したが、一方で家光は体育会系の資質も強く、己の剣術が一体どの程度のレベルなのかが全く分からないのが不満であった。

「但馬、予の剣はどうじゃ」と聞くと、
「結構な出来栄えで御座います」と必ず宗矩は答える。
これが家光の不満であった。

「もう少し真剣に剣技を教えてはくれまいか」と宗矩に迫ると
「実戦の技は『王の剣』にはござりませぬ」と宗矩は巧妙にはぐらかしてしまう。宗矩はあくまで型にこだわり、心法の江戸柳生に徹して教授した。

(続く、睡猫児)

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