いま古流剣術が面白いーー新陰流兵法とは何か (15)
勢法(型)の稽古 四
勝海舟に、「芭蕉の句は禅機からうまれたものが多い。『古池や蛙とび込む水の音』などの句は、無我無心の妙趣を含んで、とても凡人ではわからない。」と喝破されては二の句が継げない。この句の蛙は一匹か、否数匹かなどと呑気な議論を戦わせている俳人は大いに反省すべきである。
ところで本論が大蛇行を起こしてどこに漂着するかわからない様相を呈してきたので、再度話を元の元に戻そうと思う。確か型稽古の有用性を述べようと思っていたのだが、つまりは何度頭を叩かれても命に別条がないスポーツと、頭を一度切られたら命が危うい戦いの差を言いたかったのである。地上に置かれた角材の上を歩くのは容易でも、地上から十メートルの高さに置かれた同じ角材の上を歩くことは普通の人には不可能である。これを克服できるのは、足運びの技術ではない。
人間は刀を構え合って戦った時、自分が打ち込んでいったら、逆に切られてしまうかもしれぬと思ったら、そう簡単には斬り込んでいけるものではない。だから実際の斬り合いでは、己の身を安全な所に置いて斬するので太刀の届かぬ所を斬ってしまうものらしい。そこで、斬る時は鍔元で切れと歴戦の達人は助言したそうである。こうしたぎりぎりの闘争の場では、必要とされるのは胆力であって、スピードや反射神経の良し悪し、技術などではないということだ。以前に書いた新選組の隊士が竹刀の試合ではからきし弱いのに実戦では敵なしの強さを発揮したのが良い例である。
従って型稽古では、技を身に付けると同時に稽古を通して相手を圧する胆力を付ける訓練が最も大切になる。型稽古で大切だが難しいのはここの所である。気迫をみなぎらせて型を使わなければただの手順を覚えるだけの練習にしか過ぎなくなる。
天真伝一刀流を開き、組太刀(型稽古)のみで天下無敵を詠われた幕末の名人寺田五右衛門宗有は「俺の木太刀からは火焔が噴くぞ」というほどの凄まじい太刀であった。宗有の稽古は木太刀を青眼に構え、相手をじりじりと追い詰めていく。すると相手は徐々に息を喘がせ顔面蒼白となって羽目板に追い詰められ、蛇に睨まれた蛙のようになったという。これが即ち胆力、精神力を型稽古で鍛えた験であり、型稽古の理想とするところである。
(続く、睡猫児)