新陰流兵法とは何か (18) 続・「心法の江戸柳生」「刀法の尾張柳生」

いま古流剣術が面白いーー新陰流兵法とは何か (18)

続・「心法の江戸柳生」「刀法の尾張柳生」

 慶長十年六月、柳生石舟斎は正統新陰流第三代を嫡孫兵庫助に相伝した。兵庫助は幼少時から資性が石舟斎と瓜二つと言われ、掌中の珠として石舟斎に溺愛された。石舟斎は兵庫助に剣術の手解きをし、特別に訓練して新陰流の要諦を十二分に仕込んだ。

 兵庫助は生来の優れた武芸者の資質によって、石舟斎の期待に応えた。祖父の到達した新陰流の奥秘すべてを完全に受け継ぐ実力を身に付けるまでに育った。そこで石舟斎は安堵して新陰流第三代を兵庫助に的伝したのである。この時石舟斎は、師の上泉信綱から授かった一国一人の印可状、同時に相伝した新陰流四巻の太刀目録、三巻の極意書等伝書のすべてと、柳生家伝来の刃長四尺八寸に及ぶ出雲永則の大太刀を譲り渡した。

 その翌年、師父石舟斎が七十八歳で寿終すると、兵庫助は以後の十年余を各地に武者修行して過ごした。その間京都妙心寺に参禅し、そこで尾張藩附家老成瀬隼人正と知り合った。隼人正は兵庫助の人となりに感服して、徳川家康に尾張藩主徳川義直の兵法師範に推挙した。柳生兵庫助はこうして尾張藩の兵法師範となり、同時に尾張柳生の始祖となった。

 兵庫助は初め肥後の加藤清正に五百石をもって仕えた。話は関ヶ原合戦の前に遡る。かねて石舟斎と石田三成の宿老島左近とは昵懇の間柄であった。左近がふとした折に加藤清正に兵庫助の大剛ぶりを話したことがあった。そこで清正は石舟斎に兵庫助の仕官を懇望に懇望を重ねて了解を得たのである。

 清正に仕官した兵庫助は、領内で発生した百姓一揆の鎮圧を巡り重臣と争論の挙句、生来の短気からこの者を一刀のもとに斬り捨て、加藤家を辞した。石舟斎が孫の短気を心配して「何分にも短気者ゆえ、不都合があっても三度までは死罪をお許し頂きたい」と頼んであったので命は助かった。

 兵庫助にはこんな話もある。ある時、兵庫助が弟子にこう言った。「城下を歩いていて五体に寸分の隙も無い武芸者に出会った。あの御仁こそ宮本武蔵殿であろう」

 同じとき武蔵が弟子に云った。「先ほど名古屋の御城下で真に生きた武士の姿を久しぶりに見た。まだ会ったことはないが、あのお方こそ名高い柳生兵庫殿に違いない」

 どうだろう、この話はすこし出来過ぎているように思われるが。

(続く、睡猫児)

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