新陰流兵法とは何か (17) 「心法の江戸柳生」「刀法の尾張柳生」

いま古流剣術が面白いーー新陰流兵法とは何か (17)

「心法の江戸柳生」「刀法の尾張柳生」

 ところで、新陰流には「江戸柳生」と「尾張柳生」の二つの流れがある。これをまだ話していなかったことに気付いたので遅ればせながら次に書く。

 流祖上泉信綱が新陰流の後継者として選んだのは大和柳生の庄を領する柳生石舟斎宗厳であった。既に老境に入っていた信綱は自分が会得した奪刀法(無刀取)の術技の体系化と教習法の完成を石舟斎に委託した。石舟斎は苦労した挙句、弟子の福野七郎衛門の協力で良移心当流和(やわら)術を参考にして、徒手にして敵の太刀を奪い取る無刀取三本を完成させた。信綱に披露すると、信綱は「好いかな、好いかな」と手を打って称賛した。

 この無刀取の妙技が石舟斎によって発明されたことは、時が経つにつれ心ある武芸者の密かな憧憬となり、やがてその伝聞は天下を狙いつつあった徳川家康の耳にも入った。当時家康は京都紫竹村鷹ケ峯の陣屋に滞在していた。剣術好きの家康はこの無刀取という技を何としても見たくなった。そこである日石舟斎のもとに家来を遣わし、礼を尽くして石舟斎を陣屋に招いた。

 石舟斎は厚く奉じていた将軍足利義昭が信長に追放されると、以後二十年の長きに亘って柳生の庄に逼塞して新陰流の研究に没頭していた。しかし、家康の懇望をもだしがたく、五男の又右衛門(宗矩)を召し連れ鷹ケ峯の陣屋へ参じた。

 家康は、新陰流の奥義について熱心に質問すると同時に、秘技「無刀取」の演武を熱心に求めた。家康は石舟斎父子の演ずる絶妙の無刀取の術技に感嘆し、自らも木太刀を取って石舟斎に立ち向かった。

 石舟斎は頭上に打ち込まれた家康の木太刀の柄中を取るや奪刀の技を施した。家康は木太刀を奪い取られ、危うく後ろへ真っ逆さまに倒されそうになって「これはたまらぬ。恐れ入った」と幾度も繰り返し言ったという。石舟斎の神技と円熟した人柄に触れた家康は直ちに自ら誓紙を書き、石舟斎の弟子となった。その後石舟斎に出仕を求めたが、石舟斎は老齢を口実に召し連れた宗矩を代わりに推薦した。家康の旗本となった宗矩は関ヶ原の戦後徳川幕府成立とともに二代将軍秀忠の兵法師範を命じられた。これが「江戸柳生」の始まりである。

(続く、睡猫児)

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