新陰流兵法とは何か (5) 流祖の出自

いま古流剣術が面白いーー新陰流兵法とは何か (5)

流祖の出自

 ようやく新陰流の稽古についてお話しできると思っていたが、前回の終わりに流祖の名前が出てきたので、稽古を説明する前に流祖が何者であるかを話しておきたくなった。そこで又少しばかり寄り道をして、新陰流の流祖上泉伊勢守信綱の出自と略歴とを書く。

 信綱の生年は一五〇八年、上野国上泉城々主上泉義綱の次男として生まれた。上泉家の元は大胡氏で、大胡氏は上州有数の名門である。祖先は平将門の乱を平定した藤原秀郷(藤太)だが、戦国の世になると訳あって俄かに凋落してしまった。そこで、大胡家の縁戚であった一色義直という人が、自分の孫である義秀を上州に派遣して、大胡家再興を図った。一色氏は足利将軍の連枝で丹後・伊勢半国の国司に任じられた有力大名である。さらに義直は応仁の乱の西軍、山名宗全側の有力幹部でもあった。

 大胡家を継いだ義秀は数年を経ずして同家を再興した。すると、即座に再興した城を大胡氏の係累に譲って、新たに城を築き上泉氏を名乗った。これが信綱の曽祖父である。

 上泉家四代として生を受けた上泉信綱(初め秀綱)は幼少期から武術の天禀に恵まれ、十三歳にして剣術で父親に勝ちを収めたという。そこでその剣才を磨くため当時鹿島の鬼と異名を轟かせていた剣豪松本備前守に預けられることとなった。

 備前守が鹿島の鬼と恐れられたのは、首供養を既に三度行っていたからである。当時の武門の習わしとして、敵の首級を三十三個討ち取るごとに仏教八宗派の僧侶を招いて盛大に供養を行った。これを首供養という。松本備前守は戦場で討ち取った首級が百一個と言われた。つまり首供養を三度行って、なお余りがあるという剛の者であった。

 信綱は預けられた備前守の過酷な修行に耐え抜いた。僅か四年で鹿島神道流一切を習得し、皆伝を得て故郷へ戻った。まだ十七歳の若さだった。それから、習得した術技を研究し深めるのに五年を要した。しかし、一人でいくら修行に励んでも解決できない難問は後から後から湧き出るように生じて来る。

 そんなある日のこと、一人の老人が飄然と上泉城を訪れた。ほつれるに任せた衣服と髪の毛、皺だらけの日に焼けた顔、鼻からは白い鼻毛も見えている。刀を腰に差していなければまさしく田夫野人にしか見えぬ老いぼれ武士だった。(続く、睡猫児)

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